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【書評】医療の限界(小松秀樹著)

いま、日本の医療は崩壊の危機に瀕しているという。一時期、医療事故のニュースがテレビ、新聞紙面を賑わせていた事は記憶に新しい。
 
では、その原因はなんだろうか?そこを突き詰めていくと、この問題が医療そのものの問題だけでなく、警察、司法、マスコミの医療に対する理解不足が根底にあると、筆者は主張する。第一章、二章では「医療の常識」と、「世間の常識」がずれてしまった、両者の齟齬に焦点を当てている。
 
「医療とは本来、不確実なものです。」
 
医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療行為をしても結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識である。
 
しかし、世間の認識はそうではない。医療事故というのは、システムが原因で起こる事故である可能性もある。それを個人の罪としてしまうことで、医療従事者がどんどん現場から離れていく。「立ち去り型サボタージュ」と呼ばれるものだ。
 
 
 
「警察・検察は最初に有罪であるという心証を得ると、努力の方向は有罪を立証することに向かいます。」
 
この一言は非常に重みがある。ディー・エヌ・エー鑑定の評価を誤り、無罪の菅谷氏を数十年に渡って拘留することになった「足利事件」は、記憶に新しい。警察・検察は、筆者の言説に対して、説得力のある批判を展開することができるのだろうか。
 
また、司法が医療事故を裁くことに対する限界に対する記述も大変興味深い。医学は、「科学」に内包されるものだ。果たして、司法は科学的な事故を裁く能力を有しているのだろうか?
 
筆者の答えはノーだ。本書では、米子空港で起こった事故を例に挙げている。この事件では、警察は専門的知識を持たず、はじめから操縦者の過失があったものとして捜査を行った。結局、日本乗員連絡会議とアラスカの飛行機会社との共同実験により、操縦者の判断と捜査が「ほぼ適切」であることが示された。
 
「彼らの手法と論理が通用するのは、世界の限られた一部です。」
 
警察関係者は、この言葉を一体どのように受け止めるのだろうか。「医療の不確実性」を無視していると言われても仕方あるまい。  
 
 
司法だけでなく、ほとんどのメディアもその不確実性を受け入れようとせず、一方的に患者と医師の対立を煽ってきた側面についても言及している。メディアの医療事故報道の前提に、助かるはずの命が助からなかったというニュアンスが入っている可能性がある。
 
ただ、筆者のメディア批判に関する議論はかなり雑で、なおかつ稚拙なものだ。第一章で筆者は、「根拠のない楽観主義がメディアを支配している」という。結果が悪い時、メディアはその楽観主義を反省することなく専門家を断罪するそうだ。
 
果たして、その言説はどこまで信頼性があるのだろうか。そもそも、メディアという語をどのような定義で使っているのか。テレビ、新聞、雑誌、ネット・・・。それぞれの媒体で、性質も、報道姿勢も全く違う。テレビは大衆受けするように分かりやすさを重視して番組を作るだろうし、新聞は、より緻密な取材に基づいているはずだ。週刊誌などでは、しばしば記事の真偽を巡って法廷闘争になる。簡単に内容を信じるのは危険だ。
 
また、いずれかのメディアが楽観的だという前提に立ってみても、その論拠は不明確だ。論拠が明確でない筆者の主張は、信頼性に乏しいという批判を受けても仕方がないものだろう。
 
本書に度々登場する、彼のメディア批判言説は「メディア嫌い」という偏ったイデオロギーに染まったものであるという疑念を持たずにはいられない。それぞれの読者が自由に解釈すべき点ではあるが、この点に関しては注意を払うべきだろう。
 
「日本の医療を守っていくためには、医療提供者の努力だけでなく、患者、司法、メディアなど、社会の側にも医療に対する認識を変更してもらう必要がある」と筆者は語気を強める。この国の医療を守らなくては、という使命感を持ってのことなのだろう。
 
医師として多忙であるなか、このような本を執筆していることに対しては、多大な敬意を払うべきだ。しかし、もう少し説得力のある書き方はできなかったのか。「医療」という、私たちにとても身近なトピックだからこそ、そう感じずにはいられなかった
 

 

 

 

医療の限界 (新潮新書)

医療の限界 (新潮新書)